mayu tsuruta | ryuichi sakamoto
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  白いキャンバスを目の前にして
tsuruta  坂本さんはそういう時代を経て、”今”という時代を見、今何をしようとしているのですか?
sakamoto  わからないんですけどね、それは。昔は豊かな自然の中で縄文人なんかが音を奏でていたわけでしょ。もちろん厳しいときもあっただろうけど、余裕があったんだと思う。今のような全体的な危機というのを、まだ人類は体験していない。そう考えると、今のような状態を今までの音楽では表現出来ないんじゃないかと感じたりもするんだよね。


t  地球という惑星自体の危機というのは初めてかもしれないけれど、20世紀の前半にあった大戦の渦中では、物理的には今よりもヒドイ時期でしたよね。でも、そう言うときにも今までとは違う音楽が生まれてきたという過程がある。けれども、今回はそれとはもっと違う、もっと危機的な何かによって、音楽的には形にならないかも、ということなのですか?
s  とりあえず言えることは、今まで僕が知っているような音楽では納まらない感じがするんだよね。絵描きなんかでも同じだと思うけど、今かかえている問題を平面の白いキャンバスに描けと言われても書けないんじゃないかなー。でも、異常に負荷がかかればそれに対応する新しい表現が生まれてくるとは思うんだけどね、才能があれば・・・。つまり、書けないということは一つの負荷で、書けた時にはひとつの表現をステップアップさせたことになる。まあ、表現と状況というのは常にそういった関係にあって、だからこそ常に新しいものが出てくるわけだけどね。だから僕自身もずっとどういう形があるのかさぐっている状況で、まだ全然見えて来ていない。過去にあった危機の中でみんなどうしていいかわからないという状況はあったと思うんだよね、目の前で人がバンバン殺されている時に白いキャンバスを目の前にして何を描いたらいいのかわからなくなる、といったような。


t  つまりそれは、そういう状況のなかで芸術的な表現がどのくらい役に立つのだろう、と考えると止まってしまう、ということですか?
s  確かに「役立つ」ということを考えだすと完全に止まってしまうね。それは考えていないんだけどね・・・。役に立たせるとか、人に気付かせるとか、そういうことを言い出したら、きっと音楽よりはコトバで叫んだりした方が いいわけじゃない。音楽であったり絵画であるためには現実的に役に立つコトバとか道具にはない存在理由がなくてはならない。それがあってはじめて音楽とか絵画とか文学とかって言えるんだと思うんだよね。だから芸術家でそういう危機的状況にあった時に芸術家をやめちゃったり、政治家になっちゃったりした人がいるんじゃないかな。「シェルタリングスカイ」の原作者ポール・ボウルズという人は彼自身にどういう危機が訪れたのかはわからないけど、非常に優秀な作家だったにも関わらず、ポンッとやめちゃったんだよね。ランボーだって詩という形ではこれ以上の表現は不可能だと思ってやめたんじゃないかな。体力のない、持ちこたえられない表現者はみんなやめてしまう・・・。


t  それは体力がなくて持ちこたえられなかったのではなくて、表現の限界に気付いてしまったからやめてしまったのではないですかね?
s  そういう表現の限界の見え方というのもやはりある個人の体力や資質によって異なるんんだよね。と同時に、詩や音楽などのある表現形式が表現できる限界というのがあって、平面の2次元の世界である絵画とダンスなどで表現できることというのは違うし、音楽だけで表現出来ることというのも違うから、表現は無限だとは言っても、ある表現形式の持っている地平線の様な限界というのはあるよね。ランボーなんかは自分が表現したいと思うものが詩という表現形式では表現出来ないと思う地平線まで行ってしまったので、苦しくなってやめてしまったんだと思う。でも、もしかしたら、それがランボーではなくて他の人だったとしたら、もしくはランボーにもう少し違う資質があって表現の体力があればもう少し表現できたかもしれない。それはその人の資質とか体力とかいろいろな条件によってかわると思うんだけど・・・。


t  そうですね。
s  だから、地平線も広がるといえば広がるんだよね。だから、僕もまだ、あきらめずに探っているという状況です。


t  ありがとうございました。


 

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